花嫁 10

 忘れている。

私はきっと大切なことを忘れている。

胸の奥が、哀しくて淋しくて、悲鳴を上げているのに。

それでも。

思い出してはいけないと何かが囁く。

戻れなくなるよ、と。

思い出したら・・・掴まってしまうよ、と。















 目覚めても千尋の見知った天井ではなかった。

「やっぱり、夢じゃないんだ」

失望の溜息が千尋の口から漏れる。

何時の間にか青年は姿を消していた。ほっとする反面、寂しさを感じる己の感情は自分でも理解できず、戸惑いを千尋にもたらす。

あれから、一体どれほどの時間が経ったのだろう。時間の感覚というものがこの世界には欠落していて、千尋には今が昼なのか夜なのかさえわからなかった。

 もう、戻れないのだろうか。もう二度と。

あの時。

どうして振り返ってしまったのだろうか。

「振り返ってはいけないよ」そう言われていたのに。

「そう言えば・・・」

そう言ったのは一体誰だったのだろうか。

呼ばれても、振り返ってはいけないよ。

滑らかな絹のようにしっとりと響く声。あの楽しげに囁く声はむしろ反対の言葉を紡いでいた気がする。





ワタシガヨンダラ、フリカエッテゴラン。





振り返った先にいたのは、

「鬼・・・?」

しかし鬼というには悲しすぎる瞳。

 「あんた、カミにまみえたね?」

あのときの老婆の声は明らかに嫌悪の響きを帯びていて、訳がわからず幼い千尋は怯えたものだ。

神と言うものは尊くて有難い存在なのではないのだろうか。一体どうしてあの老婆はあんなにも千尋を嫌悪したのだろうか。まるで鬼でも見るように千尋を嫌悪し、そして怯えていた。

神と、鬼。

神・・・カミ・・・。

「そう、そなたは賢いね。鬼もまた・・・」

「鬼もまた、カミなのさ」
ふと、また記憶の温床から言葉が蘇る。

これはいつの記憶なのだろうか。あの、少年の言葉だっただろうか。

優しく諭すような声は、夢の中の少年の声と同じでありながら違った響きを持って千尋に囁きかける。

異形の化け物が目の前を通る。

湯気の中に消えていく化け物たち。鬼の群れ。しかしそれもまたカミなのだと彼は教えてくれて・・・。

 「くっ」

首筋が痛み出した。それでも千尋は考えることをやめようとしない。

鮮やかに笑う少年。そして私を欲して涙を流す青年。
少年と青年は、同一人物に違いない。

私は何を忘れたのだろう。どうして彼を忘れたのだろう。

「花嫁」

そう私を呼ぶ彼の言葉こそがきっと、鍵。私と彼の関係がわかれば、きっと。

「いたっ」

耐え切れぬほどの痛みが思考を停止させた。思わず手を首へとやる。

警告のようにいつも記憶を遮るこの痛みは一体何なのだろう。

考えても答が出ることはない。

天井を仰いで千尋は大きく息を吐き、ぼんやりと格子戸越しの空を見た。

浅葱色の空に薄く雲がたなびき、風は柔らかな暖かさをもって千尋を誘っている。

「外に出たいな」

「ならばすぐに用意いたします」

無意識の呟きに応じる声に身を竦ませたが、すぐにその正体がわかり千尋はほっと胸を撫で下ろす。

「あの、いるんだったらいる、て言って頂けませんか・・・?」

「我らは主の用がある時にのみ参上仕るものですゆえ」

あっさりと返答し、狭霧は千尋の支度を手伝い始める。

桜色の小袖は千尋に誂えたように彼女に映えた。空と同じ浅葱色の帯を締め、髪を結い上げてもらうと、いくらか気分が華やいだものになる。

「いってらっしゃいませ」

恭しい狭霧の声に見送られて、千尋は数日振りに屋敷の外へと出た。

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by mak1756 | 2012-09-17 00:09 | ハクセン


日々思うことをつらつらと。


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